2016年1月30日土曜日

29歳の女の子たち

 先日、知人のパーティで、同級生グループという29歳の女の子たちの手のひらを立て続けによむことになった。

 好きな服を着て、お酒を飲んで、おしゃべりに暇のない女の子たちは、みんな同じ芸術系大学の出身らしく、月丘(クリエイティブの意味をもつ)がぷにぷにと豊か。手のひらのツヤもよく、それぞれにキラキラと弾んでみえた。

 しかし何人かみたところで、右手の運命線のちょうど今ごろ(29歳)のあたりで、それまで続いていた線がいったん薄くなっている人が多いことに気がついた。

 右手の運命線からは、主にその人の外の顔=仕事のことなどをよむ。社会に向かって自分がどんな道を歩むのか(我が道一本なのか、あれこれ何足もわらじを履くのか)、どんな仕事が向いているかなんかをその線の数や流れでよみとっていく。

 仕事の線が薄くなっていると言うと「やる気がないんじゃないか?」とかネガティブな意味に捉えがちだけどそれは違う。運命線が薄いというのは、あらゆる可能性が秘められてるということ。そんなときは、なんでもできるときでもある。「確固たる自分」という邪魔するものがない分、いろんなものに染まることができる。自分では予測できない経験をたくさん積めるときでもあるのだ。

 西洋占星術に「サターン・リターン」というのがあるらしい。土星が29年かけて産まれたときと同じ位置に戻ってくるというもので、人生の進路をもう一度見直すような、ちょっとした試練のときという。私は西洋占星術については門外漢なのでサターン・リターンの真の意味は知らないが、30を手前に一度人生を見直す試練がくるなんて、よくできているように思う。

 自力でずんずんと歩んできた人も、人からの恩恵を受けてぬくぬくっときた人も、子ども時代を含めた30年弱の道のりを自分で客観的に把握するのはまだ難しい(というか、いくつになっても人生なんて分かるもんじゃないんだろうけど)。ただ、なんであれ、もう「大人」ってことからは逃れられなくなる年頃でもある。世間からはすっかり「できあがってる」人物として扱われる。そこにまだ多少の居心地の悪さも残っているのに。

「大人」なんて自分の頭上にいるしっかりした誰かのことだと思っていたら、いつのまにか当事者にされている。いつかの未来が今日の自分なのだ。時は時に理不尽である。

 でもまあ、焦らなくてもいい。それに別に29歳でなくても何歳でもいいのだ。自分がいまどんな舵をとって進んでるのか分からなくなったら、手を止めて風向きをよめばいい。漕ぐのに疲れたんだったら、しばらく漂って流されるのも悪くない。試練とは、なにか歯を食いしばって超えるものとも限らないのではないか。。。

 タモリさんの名言にもある、「流すより流されろ」って。これは案外簡単なことではない。自分が主体であることをよしとする世の中で、流されることのなんてエネルギーのいることか! (ちなみにそんなタモリさんも30歳でそれまでの仕事を辞めて「オレはお笑いしかないんじゃないか」と上京している)

 運命線が薄いときとはやっぱり試練のときらしい。ゆるゆると流れに任せて超えていこう。流れ着いた先に、また新たな運命線が伸びていく。


2016年1月18日月曜日

っぽさのこと

「手は道具だから使い方次第で表情も変わるし、まったく同じ手相というのはありえない。だから、そこからよみとる運命も人それぞれなんですよ」

 てよみをしていると、こんな話をすることがよくある。手が人間にとっていちばん身近な道具なのは言うまでもないし、どんな道具であれ、使い込んでいけばその人のクセが染み込み、その人らしさが刻まれる。そう考えると、靴のかかとのすり減り具合でその人の歩き方を推測するのと同じで、手に刻まれた線や丘のふくらみから、その人の運命をよみとるのもそう不思議なことではないと思う。 

 ただ、自分で言っていていつも少しひかかっていることがある。それは「まったく同じ手相というのはありえない」が、みんなどこか似ているのも確かで、とんでもなく人間離れしている手、肉球があるとか、鱗が付いてるなんていう人はいないということ。つまり、人間である以上、みんな同じように人間っぽい手をしている。 

 ねこの肉球占いというのをネットでみたことがあるけど、正義感が強いとか小心者とか猫にもいろいろあるらしい。しかし、そんなふうに分ける前に私たちは「猫ぽさ」というざっくりとしたイメージを持っている。「あのコ、猫っぽいよね〜」なんてみんなで誰かをウワサをするときに、説明しなくてもその場にいる誰もがその「猫っぽさ」を共有している。

 生きものにはその形態にあった性格というのがある。大きい人がのんびりしてて、小さい人がすばしっこい、なんていうのは、そのままゾウとネズミなんかに例えられる。ちなみに手相でも、大きい手の人の方が慎重でおっとり、小さい手の人の方が行動的で大胆、とよんだりする。

 その生きものらしさというのは、物理的な面から培われるものも大きい。例えばネズミがゾウくらいの大きさで、そのままのすばしっこさで生きていたら、単純に大迷惑でしかない。小さいからこそその素早さが光るのだ。そう考えると、食ったり食われたりはするものの、ただ生きているだけで地球を破壊するような無鉄砲な生き方をしている生きものはおらず(人間以外!)、実にどの物もいい塩梅にできているようにも思える(中には素早いゾウも、のんびりしたネズミもいるんだろうけど)。

 では、人間っぽさってなんだろう? 猫たちがウワサをしている。
「アイツさ、最近ちょっと人間っぽくね?」
「っぽいよニャー、この前なんか、時間がどうのとかっていってたニャ」
「え、時間って人間が一日ってのを24コに等分して数えてるやつか」
「ん? そ、そうかニャ……。あと、アイツ、昔ってやつの話もするニャ。昔はネズミ捕りで有名であちこちの家に引っ張りだこだったとかって」
「昔って、つまりあれか、今がどっか向こうっ岸に行ったやつか」
「んーと……、あのさ、今って今だよニャ?」
「だからさ、今がそのうち昔になるんじゃね?」
「んじゃ、昔って今なの? ってか、やっぱアイツ、なんか面倒くさいニャ……」 

 ねこの肉球占いには流年法(時をよみとる方法)がないようですニャ。