2016年11月16日水曜日

まゆげそるか?そらないか?

今朝、起き抜けに、先日仕事で会った男性の「何か面白いことないですかね~」というつぶやきが脳裏をよぎり、眉毛を剃ってみようと思いついた。

前髪に隠れているから剃ったって普通には気付かれはしない。で、ひょっと前髪を持ち上げたら眉毛がない……! なんて面白いんだろう! 今度あの人に会ったら見せてあげなくちゃ。朝から自分の思いつきに眠気もすっ飛ぶ。

さっそく、顔用の小さいカミソリを用意して、石鹸を泡立て眉毛にふんわりのせる。カミソリを手にし、右眉の目尻側の端から2ミリほどをジョリ。そこでふと手が止まる。

しかし本当に眉毛がなくてもいいものか? 前髪で隠れているからって風が吹いたら? いや、出かけるときは帽子で前髪を固定していれば大丈夫。とはいえ温泉とかいったらどうよ? いや、基本湯気でけむってるし誰も他人の顔なんて見ちゃいないって! 

……そんな問答をしているあいだに目に石鹸水が入ってきて急遽中断。顔を洗ってカードに聞いてみることにする。


【ヒーローダーク】
★あせってはいけません。過信しているので、客観的に見つめ直して。


よくぞ止めてくれた!と6時間経ったいま思う。眉毛がないからって面白くなるかは微妙なラインだ。引かれてしまわないとも限らない。

「無意識のうちに予期しているもっとも可能性の高い「未来」を知る」ことができるらしいユングタロットは、わかっちゃいたけどやっちゃいがちなアホ行為の抑止力にもなるようだ。突発的に行動したがるくせに優柔不断な私にとって、このカードの存在はありがたい。

とはいえ、また突発的にカミソリを手にする朝がこないとも限らないし、GOサイン(プエルライトあたりだろうか)出たらそのときこそは!と思っている。

2016年8月5日金曜日

退院は月曜日に(はじめてのユング・タロット)

前回ブログの「やばい」をとる手術から一週間ちょい。自分で言うのもナンですが、まじめに患者業に勤しんだせいか周囲もびっくりするくらい高速に回復していき、あとは検査をしたら退院オッケーの運びとなった。退院日は自分で決めていいということだったので、検査後すぐで都合がよい日曜にするか、いやいや少し余裕をもって月曜にするかを迷いに迷い、入院中に暇だろうし覚えてみようかなと持ち込んだ「ユング・タロット」をやってみることにした。

退院するなら一日でも早い方がいいと思われるかもしれないが、同じ病室で仲良くしてくれた日曜退院のおばあちゃんを病室から見送りたい、という気持ちがなんとなくあったり、隣のベッドのSさんとのキャンプの夜にひそひそと交わすような心弾むおしゃべりの締めくくりを一日でも伸ばしたい、なんていう気持ちもあったりした。しかもここは暑くも寒くもなく、9階の窓からは東京タワーとスカイツリーと刻々と変わる東京の夏の空が見渡せて、なんとも快適なのである。仕事も生活の細々したことも忘れ、子どもの頃のようにただ日々を生きることに徹することができた貴重な夏の締めくくりをどうするか、自分としてはそこそこ切実だった。

しかし模範的患者気取りの自分が、看護師さんにお世話にならずとももう生活できるというのに一日でも居座るなんて甘えすぎだろ、と戒める。

というわけで日曜か月曜で迷っていた。

「退院を月曜にしようと思うのですがどうでしょうか?」と問うたユング・タロットのこたえは「マザー・ライト」。 テキストによると「自信を持って大丈夫。大船に乗ったつもりで動きましょう。自然と、周りから助けを得られるはず」とある。そうかそうか、そんなにギスギスまじめに考えなくてもゆったりと月曜退院でいいんだな、と合点した。

それでもその日の夜、寝際にまたもしつこく悶々と考えだし(優柔不断なのです)、やっぱり甘えちゃいけないよな、一日でも早く自立せねば!と自戒。翌朝、ユング・タロットのお告げを覆し、意を決して日曜退院の旨を看護師に伝える。

伝えたところで、看護師から最後の検査日の報告があり、私が医師から聞いていたより2日遅れとなっている。検査に使う機械の予約がとれなくて遅れたという。それじゃあ日曜退院は厳しいよねと。。。

結局、退院日は月曜となった。

ユング・タロットのテキストには「無意識のうちに予期している、もっとも可能性の高い「未来」を知ることができる」と書いてある。人はこれから起こることについて無意識になんとなく分かっているもので、また実際にそうなるように無意識のうちに今の自分を動かしていたりする。その無意識を意識化するのがこのカードらしい。

無意識を意識するなんてちょっと怖い気もするが、テキストには「もちろん、あなたが「今」を変えていくことで、未来を変えていくことができます」ともある。

それならてよみも同じだと思う。手のひらには「いまの自分」の現在過去未来があり、「いまの自分」が変わればそれらも呼応して変わるのだ。無意識だろうと意識的だろうと、いまこれからを変えていくのは自分次第。

はじめてのタロットカードの効力にややおののきながらも、その奥深さを実感(それと自分のしょーもない優柔不断ぶりも実感)。これから少しずつ触れてみようと思う。





2016年7月18日月曜日

キレギレの我がケンコーについて


健康線はその線がなければ「健康だね!」という線である。
 
健康線」というネーミングからするとあると良さそうな雰囲気なのに、ないことで良しとするちょっと不思議な線だ。もし線が出ていても、まっすぐ伸びていたら「ふつう」ということでとりあえずは問題ないとみる。

問題になるのは線の流れがクネクネしたり島ができたりキレギレに乱れたりしたとき。そういうときは体調を崩しやすいときなので気をつけてくださいね、となる。

そうはいってもあんまり見かける線ではないので、自分としてもそれほど注目していなかった。

そんな私が2016年6月5日に自分の健康線の乱れを発見している(ツイッターに記録があるから日にちも確か)

ワタクシ、健康バカ一直線で生きてきたせいか自分の不調への感知機能が鈍い自覚があり、このキレギレの健康線をみるまでそこまでの実感がなかった。ただこのときは「ちょっとマジやばいかもな〜」と、雷が鳴る直前の空を見上げたときみたいに、心ざわめいた。

結論的には、キレギレの健康線を発見した2日後に訪れた病院で「やばいかもな〜」の「かもな〜」が取れ、そのまま「やばい」は順調に育っていき、今月末に入院&手術して治すことになった。

もちろん、健康線を含め手相でそこまでの展開が分かるわけではない。せいぜい調子が悪いな〜ってことを客観視できるだけだ。 手相で不調が分かったところで治せるわけではないし。うちの母も占いで健康について詰め寄って聞かれると「お医者さんに聞いてください」なんて言っているらしい。餅は餅屋で。

ただ、ずっと自分の手を眺めてきたてよみウォッチャーとしては、今回の合致はすごい!すごいやん!っていう感動すらある。私の手って正直なんだなー!と。

よろこんでいる場合ではないが、そういった実感を積み重ねると手のひらへの信用も増すってものです。

せっかく入院して時間ができるのだから、てよみについてもいろいろ考えてみようと思う。とりあえず医者や看護師さんにお助け十字が多いのか、てよみスパイしてみるつもり。このブログももっと気軽にアップできればと。


*ちなみに手術したら完治できる病気なのでご心配はいりません。「やばい」ところを取り除けば、あとは健康そのものと言われました。原因が分かっているってラッキーだなと思います。世の中、原因の分からない不調が多いもの。。。


2016年1月30日土曜日

29歳の女の子たち

 先日、知人のパーティで、同級生グループという29歳の女の子たちの手のひらを立て続けによむことになった。

 好きな服を着て、お酒を飲んで、おしゃべりに暇のない女の子たちは、みんな同じ芸術系大学の出身らしく、月丘(クリエイティブの意味をもつ)がぷにぷにと豊か。手のひらのツヤもよく、それぞれにキラキラと弾んでみえた。

 しかし何人かみたところで、右手の運命線のちょうど今ごろ(29歳)のあたりで、それまで続いていた線がいったん薄くなっている人が多いことに気がついた。

 右手の運命線からは、主にその人の外の顔=仕事のことなどをよむ。社会に向かって自分がどんな道を歩むのか(我が道一本なのか、あれこれ何足もわらじを履くのか)、どんな仕事が向いているかなんかをその線の数や流れでよみとっていく。

 仕事の線が薄くなっていると言うと「やる気がないんじゃないか?」とかネガティブな意味に捉えがちだけどそれは違う。運命線が薄いというのは、あらゆる可能性が秘められてるということ。そんなときは、なんでもできるときでもある。「確固たる自分」という邪魔するものがない分、いろんなものに染まることができる。自分では予測できない経験をたくさん積めるときでもあるのだ。

 西洋占星術に「サターン・リターン」というのがあるらしい。土星が29年かけて産まれたときと同じ位置に戻ってくるというもので、人生の進路をもう一度見直すような、ちょっとした試練のときという。私は西洋占星術については門外漢なのでサターン・リターンの真の意味は知らないが、30を手前に一度人生を見直す試練がくるなんて、よくできているように思う。

 自力でずんずんと歩んできた人も、人からの恩恵を受けてぬくぬくっときた人も、子ども時代を含めた30年弱の道のりを自分で客観的に把握するのはまだ難しい(というか、いくつになっても人生なんて分かるもんじゃないんだろうけど)。ただ、なんであれ、もう「大人」ってことからは逃れられなくなる年頃でもある。世間からはすっかり「できあがってる」人物として扱われる。そこにまだ多少の居心地の悪さも残っているのに。

「大人」なんて自分の頭上にいるしっかりした誰かのことだと思っていたら、いつのまにか当事者にされている。いつかの未来が今日の自分なのだ。時は時に理不尽である。

 でもまあ、焦らなくてもいい。それに別に29歳でなくても何歳でもいいのだ。自分がいまどんな舵をとって進んでるのか分からなくなったら、手を止めて風向きをよめばいい。漕ぐのに疲れたんだったら、しばらく漂って流されるのも悪くない。試練とは、なにか歯を食いしばって超えるものとも限らないのではないか。。。

 タモリさんの名言にもある、「流すより流されろ」って。これは案外簡単なことではない。自分が主体であることをよしとする世の中で、流されることのなんてエネルギーのいることか! (ちなみにそんなタモリさんも30歳でそれまでの仕事を辞めて「オレはお笑いしかないんじゃないか」と上京している)

 運命線が薄いときとはやっぱり試練のときらしい。ゆるゆると流れに任せて超えていこう。流れ着いた先に、また新たな運命線が伸びていく。


2016年1月18日月曜日

っぽさのこと

「手は道具だから使い方次第で表情も変わるし、まったく同じ手相というのはありえない。だから、そこからよみとる運命も人それぞれなんですよ」

 てよみをしていると、こんな話をすることがよくある。手が人間にとっていちばん身近な道具なのは言うまでもないし、どんな道具であれ、使い込んでいけばその人のクセが染み込み、その人らしさが刻まれる。そう考えると、靴のかかとのすり減り具合でその人の歩き方を推測するのと同じで、手に刻まれた線や丘のふくらみから、その人の運命をよみとるのもそう不思議なことではないと思う。 

 ただ、自分で言っていていつも少しひかかっていることがある。それは「まったく同じ手相というのはありえない」が、みんなどこか似ているのも確かで、とんでもなく人間離れしている手、肉球があるとか、鱗が付いてるなんていう人はいないということ。つまり、人間である以上、みんな同じように人間っぽい手をしている。 

 ねこの肉球占いというのをネットでみたことがあるけど、正義感が強いとか小心者とか猫にもいろいろあるらしい。しかし、そんなふうに分ける前に私たちは「猫ぽさ」というざっくりとしたイメージを持っている。「あのコ、猫っぽいよね〜」なんてみんなで誰かをウワサをするときに、説明しなくてもその場にいる誰もがその「猫っぽさ」を共有している。

 生きものにはその形態にあった性格というのがある。大きい人がのんびりしてて、小さい人がすばしっこい、なんていうのは、そのままゾウとネズミなんかに例えられる。ちなみに手相でも、大きい手の人の方が慎重でおっとり、小さい手の人の方が行動的で大胆、とよんだりする。

 その生きものらしさというのは、物理的な面から培われるものも大きい。例えばネズミがゾウくらいの大きさで、そのままのすばしっこさで生きていたら、単純に大迷惑でしかない。小さいからこそその素早さが光るのだ。そう考えると、食ったり食われたりはするものの、ただ生きているだけで地球を破壊するような無鉄砲な生き方をしている生きものはおらず(人間以外!)、実にどの物もいい塩梅にできているようにも思える(中には素早いゾウも、のんびりしたネズミもいるんだろうけど)。

 では、人間っぽさってなんだろう? 猫たちがウワサをしている。
「アイツさ、最近ちょっと人間っぽくね?」
「っぽいよニャー、この前なんか、時間がどうのとかっていってたニャ」
「え、時間って人間が一日ってのを24コに等分して数えてるやつか」
「ん? そ、そうかニャ……。あと、アイツ、昔ってやつの話もするニャ。昔はネズミ捕りで有名であちこちの家に引っ張りだこだったとかって」
「昔って、つまりあれか、今がどっか向こうっ岸に行ったやつか」
「んーと……、あのさ、今って今だよニャ?」
「だからさ、今がそのうち昔になるんじゃね?」
「んじゃ、昔って今なの? ってか、やっぱアイツ、なんか面倒くさいニャ……」 

 ねこの肉球占いには流年法(時をよみとる方法)がないようですニャ。